憂覚書

断章取義

山内得立『ロゴスとレンマ』3

山内得立『ロゴスとレンマ』(岩波書店、1974年)

 依止とは界であり限界であるから、ものを限定して一つのものとしてあらしめると共に、一つのものを他のものから区別してそれをそのものとして規定するのみでなく、さらに物と物との関係を限界づけることによって一つの「境」をつくり出すのである。この二つの作用は実は一つの働きであって界は境を作り、境は界せられることによって一つの「境界」をなす。境界とは即ち世界であり世間であった。人間は単独な存在でなく、人の世にある生物であり、人の間にある存在であるが故に人間と名づけられる。「間」とは「間柄」であり、「関係」であるに外ならなかった。そしてこの関係は単なる論理的なものではなく、具体的な「境遇」でなければならない。我々が何処にまた何の時代に生れるかは全く我々の意志を超えている。境遇が「偶」の意味をふくむのもこの故であろう。しかしたとえそれが偶然であってもとにかく何らかの境界にあり、世間にあることはたしかであり、それが間柄である以上人間の運命は相待的たるを免れない。人は世間にあるが故に相対的であり、男女の心中も相対死と呼ばれるが、それに先立って相対は相待でなければならない。相対は時に抗立的であるが、本来的には両立的であるから相待の関係が前提となる。人と人との相待によって家族があり社会があり、人類もありうるのである。

(128頁)

 

 私は生まれる時代や場所を選んでいないし、親(遺伝)も選んでいないし、総じてこの私に生まれることを選んでいない。――本当にそうか? 選んだけれど忘れただけだ、ということはないだろうか?――仮に選んでいたとして、選んだのはこの私、今の私と同一の私であると言えるのか? 言えないはずだ。今の私を選んだその主体は、そもそも「この私であること」を選んだのである。だから、選ぶ前には、その主体は私ではなかったのである。故に選んだのは私ではない。――いや、共通点はあったのかもしれない。今の私と、「今の私を選ぶ前の私」との間には、そこで選んだのではないような人格の共通点があって、その性質は選ぶ前も後も保持されているのだとしたら、やはり「私が選んだのだ」と言えなくもないだろう。――しかしそういう性質がもしあったとしても、ではその性質を私はいつか選んだのか?という更なる疑問が出てくるのであり、結局、最初には何によっても選ばれない偶然があったのだと言わざるを得ない。

 或いは、そのような性質の持続や断絶について考えなかったとしても、とにかく「現実に選んだ経験」というのが実在したのであるとすれば、それは私が選んだのだ、と言えるかもしれない。つまり私というのは、現にここにいて、世界に対しており、与えられた遺伝と経験によって形成された人格で何かを選択している者のことを言うのであるが、その内実が何であれ、同じように「現実に」何かを選択している存在がかつていた、というのであれば、それを私と呼んでもいいだろう。現実に判断し選択するのは、現実の定義上、私でしかあり得ないからである。そうは言っても、しかし「現実的な」存在が「過去に」存在した、などというのはただ矛盾ではないか。過去は現実ではない。そういう訳で、やはり自己を選んだことはない、という結論を出さざるを得ない。

 

 そもそも現実なのは今だけだ。根拠を求めても仕方がない。過去に何が起きたにせよ、その過去が事実として、現実として生起しているのはやはりこの今である。今に根拠はない。過去の生まれを選ばなかったのと全く同じく、今この時を選んでいない。私は今、この瞬間に常に生れ直している。――だから何故・如何にしてこうなったのか、が重要なのではなく、どのようにこの今が存在しているか、ということが重要なのだ。根拠は超越しているが、様態は内在している。今はどのようにあるか? 私の生としてある。私はどのようにあるか? 人間としてある。人間であるとはどういうことか?――分からない。しかしこういうことを考えることは間違いなく人間的ではある。

 自分が人間であることに我慢ならない時もある。私はこのように卑小で、制限に塗れて、分からないことばかりで、世間の中でどこから来てどこへ行くのかも分からず、その場凌ぎで生きてそのうち死ぬ。自我があり軋轢があり、責任があり不安がある。という状態が、少なくとも他の動物と比較しての人間らしさである、と一応考える。「これが人間ということだ」とは言えないが、「人間のうちのいくらかの面はこういうものだ」とは言えそうだ。そこで、――人間を超えようとすること自体もまた人間的であると言える。人間であることに倦怠を覚えると、人間は人間を超えようとする。より大きなもの、根源的なもの、深い根拠に向おうとする。自分を世界に正しく位置付け得る原理を探そうとする。それは神かもしれないし、自然法則かもしれないし、享楽かもしれないし、義務(倫理)かもしれない。「偶然性」もそのうちの一つである。世界は偶然である。私は私を選ばない。全ては勝手に、無根拠に、自由に生起する、一個の世界に巻き込まれてある。私は分別されてある、仮のものに過ぎない。真に存在するのは私ではない、人間ではない、――とこう考えるのがまた人間としての私である。依然私は人間である。人間を捨てようとすることにおいて一層人間である。人間を超えようとすることにおいて、人間に留まることになる。だから、人間を超えようと思えば、まず人間であることに耐えることが必要となる。――耐えたところで結局留まることになるのではないか?――それはその通りである。が、少なくとも、現に人間でありながらそれ以外の何かになろうとする無理を犯す不誠実、反真理、には陥らずに済む。――人間を超えているのは、人間を超えた世界の真理である。超えている以上、そこには到達できない。到達できないということは、人間的真理である。真理に忠実であることは、世界の真理にではなく、人間の真理に対してでなければならない。世界の真理として掴まれたものは、所詮人間的真理であるから。「私が人間であること」は絶対的真理ではない。それに根拠はない。私は無根拠に人間では無くなり得るし、私ですら無くなり得る(「私」は所詮概念であるから)。しかし、私が人間であることは、人間的真理ではあるのだ。何故なら私は人間だからだ。無根拠に、同語反復的にそうであるからだ。――「私が人間でない」ことにも根拠はない。人間でないことは、人間であることの根拠を否定することにより可能である。しかし、人間であることに根拠はない。故に、人間であることを否定して人間でなくなることも不可能なのだ。――ということを考えることが人間的なのである。端的に人間的である。

 「考える」とは何か? 考えるのは私だろうか。直観があり、思考がある。正確には、思考された内容がある。しかし思考作用など何処にも無い。ただ内容が浮んでは消え、繋がっては途切れるだけだ。考えるという作用は無い。考えるという作用がまた、考えられた内容に過ぎない。作用は無いし、主体も無い。考えているのは私ではないし、人間ではない。――しかし、考えている主体が仮に人間でなかったとしても、考えが人間的であるならば、それは人間の考えなのだ。人間の考えとして「私が考える」があり、「私ではない何かが考える」があり、「何ものも考えない」がある。これは端的な事実なのだ。

 

 そういう訳で、話は元に戻るが、人間であるとはどういうことか。人間は人間に対して人間である。それはそうだ。誰かが私を人間だと認めるから、私は人間なのだ。人間は一つの分類で、分類するには同類が要る。人間であるためには、人間一般が必要だ。私もまた他者を人間として規定し、人間的な行為、感情、思考を期待する。人間であるということは互いに人間を考え合うことだ。考える者と考える者とが、お互いを考え合う。これが人間関係ということだ。が、これが可能なのはそもそも「関係」という概念一般の存在による。――関係とは、複数者が寄り集まった時に生じる、その寄り集まりの総体としての性質である、と言えばある程度は正確だろうか。これを気にするのは人間のみである。

 必然的関係は関係ではない。つまり、あるものがあれば即座に別のあるものもある、在り方が一意に定まる、迷いがない、他の可能性がない、自明である……というようなことを関係とは呼べない。必然には反省の余地がない。反省の余地があるから、関係もある。関係は飽くまで規定されるものであり、そこにあると見做されるものである。だから消失し得るし、変化し得る。必然的関係も、必然であると規定された関係であって、必然で有る関係ではない。関係は作られるものであり、確固たる存在ではない。だから関係は、本来無いところに立てられたものであると言える。関係の本来無いところとはつまり、関係付けられる前の全体である。関係する複数者が存在する前、或いは、間にいるのが人間である。――しかし「人間が関係を規定する」などと言えばそれもまた一つの関係であって、やはり実在しない。間にいるのは人間では無い。正確には間ということがあるのでも無い。間は無である。更に「関係が生じる前の全体」という概念自体が、「関係が生じた後」との関係によってのみある。だから、関係の外には出られない。縁起の外もまた縁起する。ただ現に関係の中に生きており、それが無において存在していること、「本来存在しない」ということとの関係において「仮に存在する」ということはまた一つの事実である。だから縁起は空である。空である所に、空である人間がいる。関係が存在することは偶然であり、関係を主宰するのが人間であることも偶然である。しかし事実としてそうなのだ。人間は人間であることから逃れられない。

 ――つまりどういうことか? 話をまとめよう。人間は必然的には動かない。そこが非人間と異なる所以である。人間は関係を定め、選択する。――選択自由意志の存在・非在もまた関係であって、それを選ぶのがまた極めて人間的事柄なのだ。選択することには根拠が無い。縁起には根拠が無い。根拠が無いが、しかしただの偶然には終わらず、自由として現れる。自由もまた関係である。だから選択・自由もまた無根拠に無くなり得る。それでもなお重要なのは「現に」今自由があるということであり、あり得るということである。根拠を問うまでもなくそうなのだ。――人間は端的に、関係の中で自由な人間である。だから人間は関係が無であることも知っている。無であるところに作るものだと知っている。

 

 人間があり、関係があるのは偶然である。偶然において人間があり、人間があることにおいて自由があり、必然がある。「生起そのものの偶然性」と、「偶然生起している内容」とは互いに区別されねばならない。内容の方から見れば、根源的な偶然性もまたそのように立てられた関係に過ぎない。だから絶対的真理では無い。関係において絶対的真理はない。だから、人間の間に真理は無い。――人間らしさとは何か分からないのが、人間らしいということである。

 自己は他者を依止とする。私には私の範囲、境界、制御できる領域がある。動かせるものと動かせない物があって境を接している。――もし自由に動かせるものが全てだったらどうなるか。その場合、私の意志と世界の動きとは一致するだろう。その結果、私は自分が自由であることに気付けないし、そもそも私なるものがここにいることが分からないだろう。私が自由な存在としてここにいるのは、不自由があるからである。自由は不自由の中で自由なのだ。だから私が自由であることは、私が不自由であることに等しい。その上で、私の自由を司るものが私であり、不自由を司るのが他者である。私は人間である。他者は人間とそれ以外に分かれる。人間について、私は彼らもまた同じように自由であり、不自由でもあるだろうと考える。そういう主体が互いに関わり合って、互いに境遇を成す。境遇は複雑である。境は整然とはしていない。人は人に踏み込む。他人を従わせ、自己の動かせる領域を広げようとする。かと思えば、人は人から遠ざかることもある。「他人の自由を尊重する」ということがある。これもやはり、他人を自由で「あらせよう」とすることであるから、踏み込みの一種ではある。だから他人に踏み込まず生きるのは不可能である。関わろうとしても関わるまいとしても、どちらにせよ干渉したことになるのだ。関わらないということは、関わらないことで他者の邪魔をしない、という形で関わっていることになる。関係からは離れられない。これが人間の全体である。自他の境界はそれほど明瞭ではない。自由に動かそうとする範囲が自己なのだとすれば、自己はこの身体に留まらない。また動かそうと思って動かしたことが、実のところ動かされたことでもある。

 このように人間は人間と関わる。人間と関わって人間として振舞う。自他共に思惑を持ち時に協力し時に背き合い、強制したり、譲り合ったりする。情的関係を営むところに人間がいる。――他と関わることの前提は自分と関わることである。他人と関わることでどうこうなるのは自分だからである。他人を気にすることで自分を気にする。また自分がどういう人間であるか、について判断・評価・規定してから他者のところへ出て行って、それに相応しい振る舞いをするのであるから、自分をまず気にしてから他人を気にするのだとも言える。他人がいなくとも、自分とは何であり、どうすべきなのか、自分で決めている。全ての他者を切り捨ててなお、まだ自分が残っている。自由気儘である時でさえ、そういう自由気儘な存在が自分であるということは、自ずから決まることではなくて、自分で決めている。空間的には自己における他者を、時間的には現在における過去と未来を決める。それぞれどうあるべきか、どうあるべきであったか、を決める。それに即して生きる。

 

 かくして人間は縁起的である。存在するものは全て縁起的であるから、これは当然のことではある。全て存在するものは、分別された全体において存在する。しかし取り分け人間は「決定しようとする」点で、縁起を自ら作ろうとする点で一層縁起的である。故に――むしろ逆に、縁起こそ人間的在り方だとも言える。存在が縁起的だと言ったところで、そのように存在を見るのもやはり人間のみであるから。――自分で決めないといけないということ、勝手には決まらないのだということを知っている。このことを、互いに了解しているからこそ人間は互いを人間として扱える。相手には相手の決め事がある。

 

 何故物事は勝手には決まらないのだろう? ――映画のように物事が勝手に決まるとしたら、そこに反省作用としての私はいない。反省作用がなければ、そもそもそこに世界があること自体に気付かれない。世界が世界であるのは、世界として自覚されるからである。世界は初めから反省された世界なのだ。全てが勝手に決まり、迷うことなく滞ることなく気にすることも何もなく進んでいくのであれば、世界は放っておかれる。放っておかれた世界は世界ではない。そういうものは、今現に世界があるこの現実から抽象を通して言えることであって、それ自体としては存在できない。――決めるということは、可能性を前提する。可能性は、現実を相対化することで実現する。現実を相対化した所に、可能性の一つを現実にしようとする意志が生じる。――だがなぜそもそも可能性なるもの、意志なるものがあるのか?――それについては何も言えない。それらは不可能性、必然性と縁起してある、としか言えない。縁起の全体に根拠は無い。――縁起をある意味で客観的に考えることができる。なるほど世界は一個の全体状況として生起する。それが個物に分別される。個物は互いに関係し、作用して存在している。作用を持たないものは存在できない。だから全てが作用している。――これをただ眺めているわけにはいかない。私自身が縁起の一部だからである。私は私という個として、縁起を内から見、参与している。私が関わることで縁起が実現する。むしろ世界を縁起性のものとして見ること自体、私が決めていることである。常に有無を言わさず瞬間に生起する無根拠な全体において、しかも私は或る意志であり、その無根拠さを自己の自由として決断し、生きている。――もしや他人など存在しないかもしれないし、世界は幻かもしれないし、夢かもしれない。「私」すら存在しないかもしれない。――そういうことを考えているのが私である。他人や世界、私の存在を消し去ろうとすることで、却って他人や世界や私自身に態度を取っている、つまりその実在を初めから認めている、私である。――どれもこれも私の人間的真理なのだ。そうである以上、真理は無数に存在する。人間である私は無数に相対化され得る。他者の真理が、境界を超えて私の真理を否定する。そのように人間は生きている。だが最終的な、あるいは最初の選択権は、私にあるのでなければならない。客観的・概念的に見れば、私と他者は対等である。しかし現実的には、私は「この」私なのであり、一局所でありながら、しかも中心である。私が外ならぬこの私として生きるところに主体性がある。

 ――私にも他者にも動かせない部分が存在するのではないか。それを真理と呼ぶのではないか? だから真理は我々の間にあって何処にも属さない。自他を離れた真理、絶対の真理が存在するとすれば、それはそもそも、「この状況がこの状況として存在することそれ自体」のことを指すのだろう。それはもはや何によって決まるのでもない、誰の主体性も受け付けない無根拠さ、生起そのものである。と同時にその生起そのものは、無根拠であることにおいて自由に通じる。全体の無根拠さは部分の無根拠さでもある。だから部分は自由なのだ。部分が自ら決め、全体を形作る。と同時にそのような考えが、今ここに生きる人間としての私の考えなのだ。それは自他を離れた真理ではない。

 

 私は私の意志で私の人生を形成する。と同時に、その意志は生まれに制約されたものでもある。そして、同じように意志を持ち、生まれを持ち育ってきた人間との関わりにも制約されている。――とかく人間の一生は単なる物理現象ではないし、単なる物理現象として見る場合でもそれは飽くまで人間的な視点からしてそうなるのである。