憂覚書

断章取義

九鬼周造『偶然性の問題』3

九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫、2012年)

原始偶然というも絶対的必然というも畢竟、形而上的絶対者のことである。易の大極のごとき形而上的絶対者として原始偶然とも絶対的必然とも考え得るものである。要するに、絶対的形而上的必然と原始偶然とは一者の両面にすぎない。スピノザの「自己原因」もシェリングの「自己偶然」(das durch sich selbst Zufällige)も結局は一つに合するのである。絶対者は「必然ー偶然者」という矛盾的性格を備えたものと考うべきである。ヤコブ・ボェーメのいうごとく「然り」(Ja)であるとともに「否」(Nein)である。「「然り」と「否」とは単に一つのものであって、ただ自己が二つの起始に分離して、二つの中心を造っている」(Jakob Böhme, Sämtliche Werke, VI. S. 597)。原始偶然と絶対的形而上学的必然とは絶対者にあって一つのものでありながら、なお「二つの中心」を造っている。原始偶然は「下より」の行き方であるところの経験的仮説的見地において最後の理念として捉えられたものであり、絶対的必然は「上より」の行き方であるところの形而上的離接的見地において最初の概念として立てられたものである。それゆえに絶対的形而上的必然は絶対者のいわば肯定的性格を表わし、原始偶然はいわば否定的性格を表わしている。絶対的形而上的必然は絶対者の即自態である。原始偶然は絶対者の中にある他在である。絶対的形而上的必然を神的実在と考え、原始偶然を世界の端初または墜落(Zufall = Abfall)と考えることの可能性もここに起因している。絶対的必然は絶対者の静的側面であり、原始偶然は動的側面であると考えても差支えない。「諸事物の最初のものは端的に必然的なものである。諸状態の最初のものは端的に偶然的なものである」(Das erste der Dinge ist das schlechterdings notwendige. Das erste der Zustände ist das schlecterdings zufällige.)といった批判前期のカントの言葉は味うべきものである(Kant, Reflexionen zur Metaphysik, Akademie Ausgabe, XVIII, S. 142)。

(261-262頁)

 

 世界は全てをそこに包摂するものである故、常に現実に一つしかなく、別様にあることが不可能である。瞬間は唯一絶対であり、この瞬間の外に別の可能性は無い。今ここにある生起と別の生起が同時に生じることはできない。一つであること、一つの流れの中にあること、が原的事態である。全てはこのことの内にある。世界は絶対的に一つの進行である。瞬間に外は無い。

 だがこの瞬間の内になら、別の可能性は有る。現実は非現実を知る限り現実である。絶対的必然は相対的偶然を知る限りで自己となる。絶対的現実は、しかし自己の内に偶然性・可能性の概念を持つことで、絶対の自己の内において、内から自己を相対化する。絶対的な現実はこの今である。今とは極限的には、瞬間である。瞬間は時の断絶であって、外部を持たない。因果関係は瞬間の内に表象として表現されるものであって、瞬間の在り方を外から縛るものではない。現にあるものは絶対的・孤立的・突然の生起である。故に偶然である。このようなことがまた一個の必然として理解され、感受されている。絶対・孤立を内から見れば必然となり、外から見れば偶然となる。絶対を外から見る視点が、内に担保されている。故に必然は偶然を与える。「別様にあり得た現実」の表象が、現実の全体を相対化し、数多ある可能性の内の一つとして現実を理解させる。

 現実は常に一つしかない。複数の可能性が予め存在し、その中から一つが選択されて現実化するという構造にはなっていない。複数の可能性は、飽くまで唯一の現実における思考である。現実的に必然であることにおいて、その中に可能性が位置付けられているのである。だからこそ、可能性の存在は幻想ではない。唯一絶対の瞬間において思考されたことは、それが唯一絶対の思考である以上、偽ではあり得ない。偽とは時間的展開において真性が覆された時に成り立つことである。瞬間に展開は無い。その時にそう思われたのであれば、それがその時の真理である。その裏は存在しない。真性を突き崩す外部が存在しない。動揺が存在しない。ただ有るものが有り、無いものは無い。故に可能性が思われる限り、可能性は真である。瞬間において現れる全ては、現れるままに真理である。偶然は必然において与えられる。必然は、全ての偶然性がその中で思考されているところの必然である。偶然の具体的可能性の限界は、現に思われた限りでの全可能性の総計である。全ての可能性・全ての偶然を含んで絶対の現実がある。今この瞬間の、内に徹するところに必然がある。同時にその内において、偶然に突き当たる。

 

 今この瞬間しか存在しない。しかし存在する瞬間は、瞬間である故に即座に滅し、次の瞬間が生じる。瞬間は唯一絶対でありながら、相対者として複数性の内にある。故に瞬間の存在には矛盾がある。唯一絶対に徹すること(静止すること)はできない。実際に一つの瞬間に静止するのであれば、変化がない以上、「今まさに静止している」という意識自体が生じ得ない。「止まっている」と思考した瞬間に、既に動いてしまっているのである。故に静止は無に等しい。しかし相対性・複数性に徹することもできない。現にこれ以外の他の瞬間など何処にも存在しないからである。だから、唯一性・複数性ともに否定されねばならない。それらはただ、「動いている」というただ一つのことから抽象された面に過ぎない。――瞬間が実在しないというのではない。ただ生成から瞬間を取り出すことはできても、瞬間から生成を合成することはできないのである。瞬間は生成の核であり、尖端である。生成を構成する単独の原子ではない。瞬間に「因って」動きがあるのではない。動いているという現実は、瞬間の認識に先行する。

 故に、瞬間の在り方によって動きの在り方があると考えることはできない。瞬間と瞬間との間に連続を説いても、断絶を説いても、それは抽象であり、現実ではない。因果の必然性は複数の瞬間を前提するが、複数の瞬間はむしろ単数の瞬間の内に同時にあって、一つの絶対を成す。その一つの絶対は前後を持たず、過去と未来の全て、自己の根拠をもまた自己の内に含んで無から生起する、無限の可能性の中に浮ぶ偶然である。その偶然が、唯一の現実として無限の可能性を内に含んだ、否定不可能な必然である。それは一である故に必然であり、無に於いてある故に偶然である。連続も断絶も、一個の動きを抽象した結果得られる。動きそのものはそのどちらでもなく、またどちらでもある。ーー生起が止むことはない。無が有ることは無く、生成が止むことは新たに始まることと一つである。故に瞬間の偶然性と必然性とを引き継いで、生成は必然の動き・偶然の動きとして、「自由な確定」という在り方で只管に進行する。それが根源である。個別の必然も偶然もその中で垣間見られる。

 

 動きは根本的な在り方である。動きの根拠は無い。動きの背後には回れない。何によって動くのかと問うことはできない。構成要素も、法則性も、力も意志も、動きの中にあるものであり、動きの成立根拠では無い。そうして単に動いているということの中において、動き自身を対象として、動きの表象が形成される。動きを空間化・時間化し、極限まで延長すれば永遠が、圧縮すれば瞬間が得られる。現にある動きに、非現実の動きを並行させることで可能性の概念が生じる。その上で、必然性や偶然性の概念もまた生じる。動きは時間的展開として、必然にも偶然にもなる。

 過去・現在・未来はそれぞれに独立した性質を持つ領域ではあるが、同時にこれらは連続した一個の流れの様相である。現在は過去となり、未来は現在となる。また時間の内にある事物は過去から現在へ進み、現在から未来へ進む。ーー客観的過去は、最早取り返しのつかない確定した事実である。未来は現在持ち得る意志により複数の可能性を持つ未定の領域である。これらの「変えられる」ということと「変えられない」ということとは、意志・行為の在り方を言うものである。(なおここでの意志・行為とは瞬間における個物の現成、「それがそのように現れること」そのものの端的さのことを指す。)過去において意志を発揮し行為することはできない。未来はいずれ現在となるから、まだ意志する余地がある。両者を結ぶのは現在である。現在は特定の意志を以て行為が生起する現実的場である。しかし現在において本当に複数の可能性があるかと問えば否である。現に起こりつつあることは一つであって、これ以外ではあり得ない。過去となるまでも無く、現在は既に確定の連続である。しかも意志を以て何かを確定させるというよりは、確定の連続の中に意志の在り方すら含まれているような、そういう確定である。意志は現実に取り込まれつつ現実を後追いしていく表象に過ぎず、現にある生起に従属している。瞬間は前後を断ち切り、むしろ前後を内に含んで有無を言わさず確定させる。現実は常に一つしかない。それ以外には起こらなかったし、起こらないのだ。それ故、現在のこの確定性、意志の従属性をそのまま未来に延長し、未来は既に確定していると考えても何らおかしくはない訳である。予め決まり切った静止的全時間の中に、現実的偶然的一点が存在する。外的原因も内的意志も、現にそのように有る通りに有ることが、必然として原始的に確定している。それらが生起の在り方を「変える」とか「決める」とかいうことはできない道理である。ーーしかし未来は未だ現に無い。未来が確定していると考えたとして、「ではどのような未来が確定しているのか?」という問いには答えられない。ただ現在が現にこのように在る限り、未来もまた同じようにこのように在るであろう、としか言いようがない。故に未来の可能性をこの現在において複数想定することにも何ら無理は無い。ーーそうして未来に複数の可能性を認めるとしたらどうなるか。過去の存在は、飽くまで現在における想起、想像、想定によって成り立つ。過去の在り方は現在に依存する。ところで未来はいずれ来る現在であり、そこには複数の可能性が存在するのである。故に未来において存在する、未来の現在においてはまた、複数の過去の可能性が潜在していると見ることができる。ーーかくして未来も必然であり得るし、過去も複数性を持ち得る。これら両性質はそもそも現在において先取されたものである。過去の必然性・可能性にせよ未来のそれにせよ、現在の在り方、現に端的な確定の連続でありつつ、現にその内で複数の可能を想定する、その在り方の延長により得られる表象であるから。現在は確定性・強制性・絶対性により必然であり、無根拠性・断絶性・想定された複数性により偶然である。常にそれ以外にあり得ない一つの確定として、必然として内から見られ得る。しかしその内において同様に必然として、自己を外から眺めて相対化する偶然の概念がある。ーー偶然性の概念を内的に要請するのは、情である。無くてもよかったはずのことが現に有ることへの驚異。無ければよかったようなことが現に有ってしまったことへの憤懣、悔恨。またあるいは、無かったかもしれないことが現に有ってくれたことへの感謝、有難み。そして未だ現に無いものが、しかし何れかの仕方で有らねばならないことへの不安、期待、覚悟、高揚。これらの情が事物の偶然性を要請し、成り立たせる。現にこれらの情が世界を満たしていることこそが偶然性の基盤である。またこれらの情こそは偶然により与えられる必然の情である。複数の可能性あってこそ後悔もあり、自由もあり、不安もある。ただ端的に上から与えられた事物が、必然において生じる情を媒介として、下から偶然となるとすれば、偶然は経験的に生じるものと言えるだろう。