憂覚書

断章取義

九鬼周造「ハイデッガーの哲学」1

九鬼周造『人間と実存』(岩波文庫、2016年)

終りとか全体性とかいうことを現存在の存在学的規定として見なければならぬ。すなわち範疇としての終りと全体性とに対して、実存疇としての終りと全体性とを明かにしなければならぬ。範疇としての終りとは終った存在(Zu-Ende-sein)を意味する。それに反して実存疇としての終りとは終りへの存在(Sein zum Ende)を意味している。また範疇としての全体性は未済の部分が填充されて初めて成立するものである。それに反して実存疇としての全体性は「未だ」ということを契機として含むものでなければならぬ。現存在は存在する限り常に既にその「未だ」であり、また常に既にその終りである。・・・死の実存論的存在学的概念を完全に言い表せば、死とは「現存在に投げられた終りとして、現存在の最も自己的な、他と没交渉な、確実で而も不定な、追い越すことの出来ない可能性」である。・・・実存論的に投げ企てられる死への原本的存在は可能性への存在にほかならない。可能性への存在ということはまた可能的なものへの存在をも意味し得る。そしてその場合には、実現を計るために可能的なものへ目ざして行くことを意味している。帰向存在者や直前存在者の領域ではそういう可能性が常に存している。その場合には、可能的なものへ目ざすことは、それに到達することによって可能的なものの可能性を否定してしまう。然し死への存在はその実現を配慮的に目ざすというような性格は有っていない。死とは可能的な帰向存在者や可能的な直前存在者ではない。現存在の存在可能性である。また、この可能性を可能的なものといてそれを実現することを配慮すれば、生を失うことになってしまう。そして現存在は死へ実存的に存在すべき基礎を失ってしまう。死への存在にあっては可能性は少しも弱められずに可能性として成立せしめられ、可能性として持ちこたえられ、可能性のままでさきがけして会得されなければならぬ。そういう可能性への存在を可能性への先駆(Vorlaufen)という。先駆によって可能性が実現されるのではない。先駆は現実的なものに近寄るのではない。可能性としての死へ最も近く存在することは現実的なものに最も遠ざかっていることである。なぜならば死という可能性は実存一般の不可能性の可能性である。可能性としての死は何等実現さるべきものを現存在に与えない。そしてこの可能性へ先駆することによって可能性が益々大きくなるのである。一体この可能性は何等か可能的な現実を想像させるような根拠を有っていない。死への存在は可能性への先駆としてその可能性を初めて可能ならしめる。そしてその可能性を可能性として自由ならしめる。斯様に実存論的に投企された死への原本的存在の性格を概括して云えば、先駆は現存在に平人の自己の中に自失していることを暴露して、現存在をして、他者の配慮的顧慮に一次的にたよることなく、自己自身であらしめる可能性に直面させるのである。そしてその自己自身というのは平人の迷いから脱した、事実的な、それ自ら確実な、不安な、熱情的な、死への自由において自己自身であることである。

(247-252頁)

 

 未来は不定であり、可能性である。とにかくいずれ来るということだけが確実であり、内容は不確実な可能性である。

 過去を知ることはできるが、未来を知ることはできない。未来の予測は飽くまで現在の営為である。過去についての知識は、実在した過去と一致するか否かによってその真偽が決まる。これに対し、未来は未だ実在したことが無い。故に未来についての知識は、実際の未来と一致することがあり得ない。未来の予測と実際の未来との一致を語ることができた時には、その未来は既に過去となっている。故に未来についての真なる知識を得ることは不可能である。未来は常に現在を超えて不可知である。

 不可知性を根拠として、未来の自由がある。私は私の未来を選ぶことができる。

 

 未来の内容は不確実だが、しかし未来において最も確実な終末は死である。厳密には、私が死ぬかどうかもまた不定である。不老不死の概念は可能であるからだ。しかし経験的に、最も説得力のある仮定として死は実在する。私は「恐らく必ず」死ぬ。

 

 未来はそれ自体不可知だが、死はその不可知性の極限である。死ほど分からないものは無い。

 

 死は生の終わりである。生とは、その生物における活動・存在そのものであり、従って死は存在の終わりを、存在しているものが非存在となることを、意味すると考えられる。有から無への移行である。しかし無ということの意味は自明ではない。それは全く何も無くなることを意味しているのだろうか。しかし「全く何も無い状態が有る」ということは想定できない。

 私が生きている限り、私は死んでいない。だから私は死を概念として知っているだけで、実際に死を体感している訳ではない。

 私が死んだ時、死を認識する私の方が無くなっているのだとしたら、やはりそこに死があるとは言えない。「私が死んだ」ということ自体が事実として成立しなくなるだろう。

 だから、全くの無への移行としての死は成り立たない。少なくとも、考えられない。全くの無は一瞬にも満たず過ぎ去らねばならない。

 

 他者の死と私の死とでは意味合いが異なる。他者の死は単に、その他者として現れていたそのものが、無となることを意味する。私の死は、私の無を意味するはずである。ところが私は私の無を体感できない。体感できるとしたら、その体感の主体は必然的に私だからである。また、他者が死ぬことは、世界からその他者が消えることである。しかし私が死ぬことは、世界を体感する主体が消えることを意味するのだから、私にとっては世界そのものの消失に等しい。ところが世界そのものの消失もやはり体感することはできない。体感できるとしたら、主体は消失していなかったことになるからである。

 このように考えてくると、どうも他者が死ぬことは可能だが、私が死ぬことは不可能であると考えたくなる。だが他者が死ぬこともまた不可能ではなかろうか。死んだ他者も、死ということの主語として私が考えている限り、死んでいるということを述語に持つという形で、実体として存在しているとも言えるのではないか。本当に他者が死ぬのは、私が最早その他者について考えなくなった時である。ところが、最早考えられなくなった時には、私はその他者が消失したことを認識できない。死を認識できない以上、その他者は死んだとは言えない。要するに「その他者は無になった」と私が言えるのなら、その他者は無になっていない。「その他者は無になった」と私が言えないのであっても、その他者は無になっていない。いずれにせよ他者が死ぬことは不可能である。

 私も他者も死なないのだとしたら、死とは何か。また死後に何かが有るとして、何が有るのか? 或いは私の死とは、存在自体の死をではないにせよ、私の個性の死を意味することはできるのだろうか? しかし私が死んだ後に私に固有の性格・考え方なり、感性なり、記憶なりが維持される可能性は全く無いのだろうか? それらは物質的に身体に依存しており、死とは第一義的には身体の死であるはずであるから、死と共にそれらが失われることは確実であるように思われる。しかし、個性を維持したままあの世へ行くことは全く想像可能である。実際にそうなってしまえば、「個性は身体に依存するから死後には失われる」というのはただの仮説であったことになるだろう。理論は生の内で組み上げられたものであり、死についての理論が死後に有効であるかどうかは、やはり死んでみないと分からないのである。だから結局死によって何が失われるのか、或いは何が得られるのかは、不可知に留まる。どのように想像しても、それはそれなりに尤もらしく思われる。それは本質的に信仰の問題である。知性には扱えない。

 こうも言える。死後が無であるなら、死もまた無である。そしてまた、死後が何らかの有であるなら、それは結局生の延長に過ぎず、死んでいないことになるだろう。いずれにせよ、死は体験できない。死は絶対的な未来である。それは未来に確実に存在するのに、到達することができない。何時か来るのに、永遠に来ない。死は非有非無である。

 

 死後のことについて真理を求めても、ただ不可知であることが分かるのみである。では死とは何かと言うに、まず死後にどうなるかという話と、死が存在することそのものについての話とは分けて考えねばならない。

 死が力を持つのはその存在そのものにおいてのことである。死後の仮定もまた、そもそも死が「存在している」からこそ問題となる。私は死に対し態度を取ること、死を規定することによって死を問題とする。問題にすることそのものが、死の存在根拠である。死は、私が死を問題にするからこそ、未来に存することができる。どのような理屈を捏ねようと、「現実に」私は死を考え、いつか死ぬことを自覚し、死ぬまでに何をするかを決めている。

 生から死への移行、有から無への移行を考えても意味が無いのである。「無になったらどうなるか」という思考は、死を真剣に見ていない。それは死を通り越し、見落としている。死そのもの、無そのものに踏み留まること、それを過渡と思わぬことが肝要である。そもそも超えられない限界を死と言う。超えられる死は死ではない。死の向こう側は見えない。既に死んだものを仮定して、その死んだものの視座・見地から死を語るのは欺瞞である。死の向こうに別の生があったとしても、その生がまた死すべきものである。死の向こうにある更なる死こそが、真なる死である。常に死の手前にしか存在できないのだ。死が存在するということは、死を経験するとか、死後の世界へ行くとかいうことではなく、単に死が存在することを知ることである。知って明らかにすることである。

 事物を知るということは普通、その事物を経験することによってしか達成されない。知とは過去を知ることである。だから死を知るには実際に死んで、死の向こう側へ行くしかないと考えられる。だが死は事物ではないのだ。死は存在者ではない。存在の終わりである。未来を知ることは、未来を通り過ぎることとは異なる。通り過ぎることで未来を知ることができるのだとして、通り過ぎたそれは既に過去である。未来は経験されない。経験されずして知られる。それが未来なる概念の矛盾であり、かつ未来の本質である。未来は現在と関わり、現在を特定方向へ導く。同じように死もまた経験されずして、生に関わり生を彩る。

 死は絶対的に未来の出来事である。だからそれは決して訪れない。同時に死は常に未来における限界として想定可能である。仮に永遠の命が与えられていたとしても、なおそこに、永遠の命すら飲み込む終末としての死の概念を想定可能である。どのような安定・安心も突如として終わりを迎えることはあり得る。

 

 終わりとは何か。終わりとは何かしら持続していたことの終わりを意味するのであるから、その根底は変化である。変化があるから、終わりがある。では変化とは何か。変化とは世界の動きである。動きとは何か。ある状態があり、それが滅して、別の状態が生じることである。極小の現象としては、瞬間の生滅である。現に、一瞬前と一瞬後とは常に異なる。世界は常に動いている。静止した世界というのはあり得ないのだ。何故なら「世界が静止している」ということが意識に登った瞬間、既に動いているからである。また瞬間とは、その内で一切の変化がない時間の最小単位である。一瞬間内に変化があったら、それは複数の瞬間として分割されてしまう。また複数の瞬間が変化なく連続するとしたら、それは結局、一つの瞬間としてしか感じられないだろう。静止は一つに圧縮されてしまう。故に、静止した世界は無に等しい。世界が静止することはあり得ない。瞬間ごとに変化があり、瞬間ごとに終わりがある。

 私が死ぬということは、「全ての存在者は死ぬ」ということから演繹したことではない。論理ではなく、現に体験されていることとして、私は瞬間と共に死んでいる。存在の明滅を常に自己の動揺として体験していること、要するに世界が動いているということが、私が死ぬという事実についての最も原初的根拠である。

 

 死とは、常に訪れているこの終わりを、瞬間の生成そのものの終わりとして世界外に投射したものであると考えられるだろう。それは瞬間の消滅という常に発生している事態を、現象そのものの滅として応用した概念である。現に世界は動いており、変化している。変化とは有が無となり、無が有となることである。だから有るものの無は常に考えられる。現象自体の無もまた考えられるし、私の個性の無もまた考えられる。それが無いということが具体的にどういう状態であるのかについては考えずとも、とにかく無くなることは考えられる。

 有は無と識別されることに縁って有である。何かが有ると認識されたのなら、それが無くなり得ることもまた自明である。そして有と無、生と滅の相互依存関係、縁起そのものの無・滅もまた考えられねばならない。無常もまた無常であるからである。だから死は何時でも、至る所に有る。全ては同じ無から生じ、同じ無へと滅する。だからこそ無は常に存在の裏面として存在できるのである。現実的存在は、無への可能的存在である。有るものは必ず無くなり得る。

 だから凡ゆる存在者について、その終わりを想定可能である。終わりの先がどうなっているかは問題ではない。とにかく終わりは有る。それが存在者の限界であり、私の限界であり、そして未来の限界である。

 

 あるものの本質は、終わりに依存する。存在している限りそれは可能性の内にあり、確定しない。「それが結局何であったのか」については、それが終わりを迎えて初めて語ることができる。本質は過去に属する。ーーだが終わりが無になることであるのだとすれば、無になったものについて何を語り得るだろうか? 無について語れるなら、それは有についてのことだということになる。終わりを迎え、それの意義について語ることができるようになるということは、結局のところそれがまだ終わっていないことを意味するのではないか? 終わっていないものについては意義が確定せず、終わったものについては最早意義を語れない。真に無になり得るということ、無に通じるということは、無意義であるということである。存在の限界、未来の限界に、無意義さがある。

 究極の未来は無である。何を得てもそれは失われ得るし、存在そのものも終には失われ得る。永遠は約束されないし、約束されても約束ごと失われ得る。また永遠の命を実際に生き切ることはできない。経験の限界として無がある。

 可能性は実現される可能性であると同時に、実現されない可能性でもある。だから無になるということは何処までも不確実に留まる。しかしそれは常に想定可能であり、たとえ忘却されることがあったとしても存在の根底に常に存在する可能性である。

 

 無の可能性は必然性を持つ。存在の全体を見るということは、無をも見ることである。無を見ずに存在することは片手落ちに終わる。つまり、その態度は非哲学的となる。哲学は存在の全体を把握しようとするものである故に、無を避けて通れない。

 よって哲学的である限りにおいて、自己の真理に従う態度として、無を自己の極限と見做さねばならない。現在は常に無に向かい、無に備える現在でなければならない。だが無に備えるとはどういうことか。自由であるということである。有るものは全て無くなる。無くなるのだから、それは何の結果も残さない。だから何らの原因でもない。責任は無い。無を見据え無に向かうことにおいて倫理は無い。倫理が無いなら、何をしても良い。それは結局、無かったことになるからである。

 

 倫理とは何か。規範性への意識である。どうすべきかということである。規範は欲望と一致する場合もあるし、しない場合もある。どうあるべきかということと、どうありたいかということとが一致する時に幸福があるが、これは稀である。どうあるべきかということと、どうありたいかということとが相反し、かつあるべき姿を優先する時、つまり求められてそうする場合、これは人間的苦痛である。自由の存在は人間をこの苦痛から解放し得る。従属を脱し反抗する可能性である。しかしそれは飽くまで可能性の一つに留まる。同じ自由を以って従属を肯定する場合もあり得るからである。自由はその本質的に、取り得る選択のいずれをも否定しない。故に自由は放埓を意味しない。自由は善悪の彼岸にある。だが善悪の彼岸は善悪を否定しない。

 故に「何をしても良い」ということからは何も出てこない。ただ単に「自己の欲求に従う」ということにしても、欲求は単純一義ではない。自己とは欲求を持ち、欲求を制御する理性を持ち、その理性を駆動させる更なる欲求があり、その奥にある欲求をも理解し制御しようとする理性があり、というような、複雑な統体のことを言うのである。欲求は多層的であり、その何れかを取り何れかを捨てればそこに真なる自己がいるというものではない。むしろ真なる自己とは、何をも捨てない全体性そのものである。そのような複雑さが単にここにこのようにあるということ自体である。それ故「何をしても良い」自己が現実に何をするかといえば、「何でもする」自己の全体をただ顕示するのである。その全体こそ現にある自己であり、本来的全的自己である。自己の現にある全体を、善悪を問わず単に余さず見渡すことである。故に真なる自己は、「自己に従う」自己ではない。全体は全体である以上、何にも従わない。全的自己、分別されない自己は、ある部分が別のある部分に従うという形では行為しない。全体としての自己は自己に従うこともないし、他者に従うこともない。というより、他者は常に自己と共にあるのだから、実体的に他者であることが無い。他者もまた自己によって配慮された他者として、自己の全体性・本来性の一端を担っているのである。他者の存在が、その他者を配慮するものとしての自己の在り方を充足している。よって自己が他者に従属することがあっても、その在り方の全体はまた、何にも従わない自己の全体としての、一つの本来性であり得る。或いは全てが無に通じていることを根拠にあらゆる倫理を破棄し、他者を無視・攻撃・破壊することもまた一つの本来的有様であり得る。それができるなら、それをして良いのだ。主体的であろうと受動的であろうと、問題はそこに自己の真理があることを何処まで見て取れるかということにある。

 無からは極大・最多の可能性が与えられるが、そのような可能性から現実に選択される行為は何を根拠に持つのか。存在者は存在者を意志する。私もまた他者を意志する。だがこの意志は最終目的を欠いている。ただ当座の苦痛を埋め合わせるために意志がある。意志と苦痛とは一つである。だが苦痛は何故、何によって存在するのか。ーー理由は無い。苦痛は全ての意志の出発点であり、苦痛が無ければ何一つ世界は動かない。苦痛が原点である。故に苦痛は根拠を持たない。無から来る苦痛が、無から意志を呼び起こす。無に向かう意志は、無から来る意志でもある。無から呼び出され、無において意志し、最後に無へ帰るものたちが、従って現に有りながら何でも無い全ての存在者が、挙って無根拠に事態を成立させる。事態は事物の集合であると同時に事物の否定である。無が寄り集まり無を形成する。無は最大の可能であるが、何をも指示しない。指示するものは存在者である。無は存在者ではない。目的性・必然性を持たないものがただ単に偶然に生起することにおいて全体を成す。その偶然が結局、個物の自己表現としての意志でもあるのだ。「どのように現に有るのか」ということも、「どのように有るべきであるのか」ということも、無において一度抹消され、再び流れ出す。

 全てが無に通じている。いずれ無になるものは、今既に無であるも同然である。今は有るがいずれ無くなるのではない。それは初めから無いのだ。有るものは全て、何でも無いものとして有るのだ。いずれ無くなるものが何故今有るのか。その「何故」こそが常に決断されつつある。未来の終局に先駆することで、それが帰る先の現在が問われる。無は一面として、生を駆り立て奮起させる。「いずれ死んでしまうのだから、今これをせねばならない」。だが半面、無の同一性、どのように生きようとも結果は同じであるということは一つの安堵でもある。「いずれ死んでしまうのだから、これでいいのだ」。また同時にそれは人を投げ遣りな気分にもさせる。「いずれ死んでしまうのだから、どうしていても同じだ」。またそれこそが同時に、無への一つの主体的態度でもある。「いずれ死んでしまうのだから、このように考えるべきだ」。何にせよ無は具体的指示を持たない。無からどのような意志や思考が派生することもあり得る。死は人を不安で落ち着かない、居ても立ってもいられないような気分にさせることもあるし、全てを否定し破滅させたいような気分にさせることもあるし、不思議に落ち着いた、全てを受容し肯定するような気分にさせることもある。義務感に駆り立てることもあるし、現状に満足させ自由を感じさせることもあるし、変化を促すこともある。活発にもさせるし自堕落にもさせる。主体性を与えることもあり奪うこともある。これら全てが死の本質である。つまり死には本質が無い。

 死が人により良い行為を促すのは、いよいよ死が身に迫ってきた際に過去を振り返り、「自分は良い人間だった、良く生きた」と思いたい自己愛のためである。もはや取り返しのつかない時を思うことで、現在は現に取り返しのつく時の可能性として、自由な選択の時として意識されてくる。だが具体的に何をすることがより良い未来、より良い終末を導くのかは全く不明である。故に未来への不安は現在の満足によって補填されるしかない。かくして未来への意識は結局、この瞬間をより良く生きる決意となる。死は私がこの瞬間に良くあることを求める。この瞬間に良い人間であること、良く生きることが重要な関心となる。だが更に、この瞬間に良い人間であること、良く生きるということが具体的にどういうことであるのかは、またしても全く不明である。未来が不明だから、現在も不明なのは必然なのである。それでも、今良いと思ったことをするしかない。ところが更に、今良いと思ったことも現実に遂行できるとは限らない。結局のところ、私は現に有る通りに有るしかないのだから。

 私は有る通りに有り、他者もまた有る通りに有る。両者は関係する通りに関係する。全体は無根拠に端的に与えられる故に、動くことと動かされることとは等しい。故に私は、動ける時には動けるし、動けない時には動けない。実存するのは私と他者が共に同時に存在するこの全体性のみである。そこにおいて能動と受動は等しい。有無を言わさず与えられた関係の中に置かれているのである。一つの全体だけがあるのだ。その全体の主体を何処に置くことも可能である。世界は私から始まり得るし、他者からも始まり得るし、両者の共同からも始まり得る。だからこそ、誰も自身の存在の仕方に対し完全な責任を持っていない。同時に全ての存在の仕方に対し、完全な責任を持っている。何処にも責任は無い故に、何に対してでも責任を負わせることができる。それが共同である。巡り合わせ、運、偶然である。このことが全ての選択の基底に有る。私の主体的決断もまたこの基底の上でしか生起しない。

 瞬間は生じては滅するので、有ることは即座に無いことである。同時に瞬間の流れは尽きることのない存在の源泉である。生成の無限に頽落する時、私は時を惜しむことを忘れる。私は私であることを忘れる。瞬間毎に死がある。全てはその都度確定される。同時にその確定そのものが即座に無となる。そしてその無が再び有である。生成は無限であり、全ては間延びし、何も確定せず、何も本質を持たず、より良いことも悪いことも無い。全ては取り返しがつく。現在に死ぬものは却って永遠に達する。それは自己愛を捨てることである。死の本質的意味の対立は、個体・存在者としての有限な私と、無限なる生成・存在の対立である。両者は対立しつつ、包摂し合う。無限なる生成は、有限なる私の妄想かもしれない。有限なる私の方こそ、無限なる生成の見る夢かもしれない。

 いずれにせよ存在の全体は死と無に通じている。無を見てこそ全体の真理が明らかとなる。そうして全体の真理において人は何をするのかと言うと、別段何もしない。ただ自己存在と行為が全体性において見られるのみである。内容は変わらない。気分が変わるのだ。哲学の最終目的はこの気分である。ーー個別の無は全て、全体としての存在の無に帰結する。存在の無が存在の意味を成す。存在の意味は個別の存在者に帰ってくる。そして経験は独自の風光として存在させられることとなる。それをさせるのが、現に存在を存在させるところの、現存在である。死や無はまた忘却されることもあり、矮小化されることもあり、誤解されることもある。そうであってもなお無は存在と共に常にあり、経験の意味を構成する。忘却もまたそうすることで、一態度として経験の意味を構成する。死は超越論的死である。それがあってこそ経験が意味を持つ、その構造・働きそのものである。

 これまでに起きたことを引き受け、それに基づいて先のことを気にしながら、現在に行為するのが生である。起きたことは変えられないので、ただ判断材料として利用される。過去という固定があるからこそ、そこから未来を見積もり、備えることができる。自分のこれまでの経験を踏まえて、この先どういう自分になりたいのか、あるいはなるべきなのかを判断し、そのための行動を逆算する。現在は未来に向けられている。現在は未来においてある。だが未来は無において在る。無に至るべきものは、無から出るものでもある。それは元々何でも無いからだ。ところで私が何者であるかは、私が何と関係するかに依る。私は様々な存在者に出会い対処する。対処が私の本質である。対処していない私は無い。私の内実は他者から与えられる。私を埋め尽くしているのは他者である。だが他者はそのままに無である。何でも無いもの、いずれ無くなる故に、今無いこともあり得たはずのこと、偶然なるものである。私は存在者と関わることにより、必然的に無と関わる。そのように直観し思考する時、私は他者に埋め尽くされその促しの中を生きる平人の自己を超えている。それは平人でなくなることを意味するのでは無い。平人であることの意味が変わることである。囚われを俯瞰することであり、超出することにおいて却って正しく自己を世界内に位置付けることである。明らかに自覚することである。平人が平人であることを明らかに知ること、正しく見ることである。