憂覚書

断章取義

九鬼周造「ハイデッガーの哲学」3

九鬼周造『人間と実存』(岩波文庫、2016年)

 一体、現存在とは無の中へ引き込まれていることである。被投性に就て考えればよい。現存在は存在する限り投げられているのである。すなわち彼れ自身によって彼れの「現」へ齎されたのでは無い。被投性の裏へ廻ることは絶対に出来無い。現存在は実存する限り彼れの存在可能の根拠であるが、しかもその根拠を彼れ自身で置いたのでは無い。現存在は彼れの根拠の前には決して実存し無い。常に根拠から、また根拠として実存する。従って根拠であるということは最も自己的な存在を根拠共には決して支配することが出来無いことを意味している。無ということが被投性の実存論的意味に属している。現存在は根拠として存在する限り自ら彼れ自身の無である。次にまた実存すなわち投企ということから考えても、現存在はその都度一または他の可能性において在るのである。すなわち常に他のものでは無い。投企はその都度投げられた投企である限り、根拠存在の無によって規定されているが、それのみならず、投企自身としても本質的に無である。自由ということは一を選ぶということである。すなわち他を選ば無いことである。他をもまた選ぶということは出来無いのである。なおまた被投性および投企の構造の中にある無に基いて現存在は頽落している。すなわち原本的で無いという無として事実上つねに存在する。要するに被投性からしても、実存からしても、頽落からしても、現存在の存在たる関心はその本質において徹底的に無である。関心は被投的投企として無なることの無なる根拠である。そして負目があるということは無なることの根拠であることであったから、現存在はそれ自身において負目があるのである。無であるから負目があるのである。現存在は単に事実上に負目を担っているのみならず、その存在の根柢において負目があるのである。それがもとになって、すなわちそれが存在学的条件となって現存在は事実上負目があることが出来るのである。すなわちこの意味の本質的な負目が実存論的条件となって、その条件の下にいわゆる道徳的の善や悪が可能なのである。現存在の根源的な負目ということは道徳性によって規定されているものではない。道徳性それ自身がこの根源的な負目を既に予想しているのである。それのみならず論理的の否定というようなこともまた現存在の根源的な負目すなわち無に基いて初めて生じて来るのである。「無」の方が「非」または「否」よりも一層根源的なのである。更にまた神学のいう原罪なるものも現存在のこの根源的な負目もしくは無が根柢にあって存在学的条件をなす限りにおいて考え得るものである。負目とは現存在の有限性にほかならない。有限性の有っているあらゆる意味の無である。そして無の根源的顕示がなければ自己存在も自由もないのである。

(256-257頁)

 

 世界は知覚されたものと、思考されたものとの全体である。知覚と思考以外は何一つ世界内に見出せない。現に知覚されるものは、知覚されて有る。現に知覚されないものは、思考されて有る。それが存在の全てである。

 現に存在するものが存在する。現に存在しないものは、存在しない。知覚と思考の全体が現に有る。世界とはただこれだけのものである。過去と未来は思考され、表象される。現在は思考された知覚として有る。これだけである。時間は幅を持たない。時間の全体がこの瞬間に有る。現にあるのはこの瞬間のみである。この瞬間に全てがある。

 瞬間は絶対の有であり、突如生じ即座に滅する無でもある。瞬間は根拠を欠いている。瞬間は一個の全体であり、自己の根拠をも自己の内に含む。瞬間は突如としてそのようにあり、無から出て無に帰る断絶の連続である。ただ有るものが有り、有るものは無くなり、また有るものが有る。それだけである。

 瞬間は根拠を持たず、帰結も持たない。本質は持続せず、何からも引き起こされず、何をも引き起こさない。因果は生起と共にある。因果もまた生起するものであり、生起の外には無い。まず原因があり、それが結果を引き起こすのではない。生起に外は無い。だから生起以前に、その生起をそのようにせしめる原因や意志や主体が存在していた訳ではない。生起は根拠に支配されない。生起が根拠の根拠である。

 現存在は絶対的事実である。現存在を存在させる根拠としての過去は、この事実性に絶対的に遅れる。根拠を問うということは、生起を相対化することである。「或る根拠が有ったから、このような生起が有った。その根拠さえ無ければ、この生起も無かった」。このように考えることで、絶対的必然的事実を、「条件次第では無かったかもしれないもの」へと転化することができる。現実に生起することで初めて、生起の根拠を問うことができる。生起の根拠を突き止めることによって初めて、その生起は現実的に生起する以前に既に可能であった、と考えられるようになる。だがその、現実において思考された可能性がまた一つの絶対的事実である。可能性は現実に生じて初めて可能性となる。事実の裏には回れない。だから現実性は可能性に先行する。現実性以前には如何なることも可能ではないし、不可能でもない。

 主体は存在しない。世界は全体として生じ全体として滅する。全ての存在者は全体の生起に巻き込まれる形で生起している。全てはそのように存在させられる。受動性が初めに有る。能動性は根拠と共に付与される。能動性は受動性と共に、受動的にのみ与えられる。また、何が存在を存在させるということも無い。存在を与える主体もまた存在しない。従って能動的・主体的・自由なものは存在しない。全てはただ有るように有るだけであり、どのように有らしめられるのでもない。

 ただし受動性は能動性と識別される限りにおいて成り立つ。受動があるのなら、そこには能動の可能性が既に前提されている。そして両者の成立は、同時に両者の非成立をも予想している。能動が否定されるところでは、受動もまた否定される。故に両者共に虚妄であるとも考えられ得る。有るものは元来、能動的でも受動的でも無い。それらの性質はただ解釈に過ぎない。自由も不自由も絶対ではない。だとすれば、それ故に自由もまたあり得ると考えねばならない。世界は非選択的事実の連続であるに拘らず、事実の内に自由の概念があるからこそ、却って自由は実在する。解釈はそのまま事実なのだ。自由は不自由において与えられるが、その不自由が真理である限り、自由もまた真理となる。或いは不自由の存在する限り、既にそこには自由の可能性が開かれている。かくして自由と不自由とは一致し、主体はその両面を潜在的に持つものとして、即ち有ることと無いことの重なったものとして復活する。

 瞬間の無根拠さは、瞬間の絶対的自由に通じる。瞬間は自己原因・偶然である。それは意志による必然的自由ではなく、非意志的偶然的生起としての自由である。それは世界の自由であり、個の自由では無い。世界は常に全体として生起する。部分は常に全体において、周囲と共に与えられる。全体は瞬間に生じ瞬間に滅し、かつ他の瞬間を内に含んで関係し、時を成す。全てが一体となり動いている。これが根本であって、どの局所も他に先んじて存在することはない。全てが平等である。大きな全体が、全ての部分を巻き込んで単独に流れて行く。瞬間において全ては同時に、平等に無から生起し、全体の中に否応なく位置付けられる。まず全体としての知覚があって、それが分別され、何が何処にあるのか理解されることで個物が生じる。しかし分別以前に、個物は既にそこに知覚として、全体に巻き込まれた形で潜在しているのである。故に中心は何処にも無い。ただ一つの生起の、その一性において生起は必然であり、強制である。それは全体から見ての自由であり、個物から見ての不自由である。全体の自由は個を侵食して不自由さを与える。

 だが全体が部分を位置付けることは、同時に部分が全体を構成することでもある。それ故大きな動きを形成するのは、全体を構成する個の自発性であるとも考えられ得る。個は全体と共にあって、それは瞬間に生じ瞬間に滅する。自己同一は一瞬間の内部における他瞬間との関係によって実現されるのであり、真に現実の瞬間はただ一つしかない。全体と共に、個物もまた自己同一性を持たない。従って、「予め」存在する実体としての個物が自分の意志を発揮するということは不可能である。そうではなく、瞬間において自己を発現するその動向、生成そのものが個物の意志である。確かに、個物は全体において与えられる。だがこのことは全体が部分に先立つことを意味しない。全体と部分とは同時である。だから部分が全体を形成することも可能なのである。全ての個が、共に一つの生起を作る。更に一歩を進めれば、全体内部の全ての関係性を作り出すのは、各個物の意志である。全ての個物が対等に自己を生起させることで、ある一つの生起を成立させると見ることができる。ここにおいて、世界の全体としての瞬間の、絶対的に自由な生起は、在在する個物へと全く分配される。つまり全体としての知覚がまずありそれが分別されて思考された個物が生じるのではなく、むしろ思考された個物の方が、初めから分別されきった世界の構成要素として、世界の全体を自発的に作り上げるのだと考える。全体がまずあってそれが根拠となって部分へ分別されるという、この関係は逆転する。自由はあらゆる部分へと解体され、各個物は無から個別に生じ、和合することで全体を形成する力の一片となる。無根拠に生じ個物を規定するその全体の、同じ強制により個物は自由に転じる。全体の中にそのようにあることが個物自身の意志に由ると、正にそのように現実に考えられる時には、個物は現実に自由となる。前後を持たない瞬間の自由を個物が分有する。かくして、生成における個物の無力はそのまま個物の全力である。そして生起の必然性は、そのまま個物の力関係の必然である。

 

 「何故、何のために世界は存在するのか」という問いには、「正に現にあるこれがこのように生じるためである」と答えられる。世界は自己原因であり、自己目的であるから。世界はただ有る通りに有る。このように有るべきであるから、このように有る。世界は選択をしない。全体の生起は何の意志によるものでもなく、ただ無根拠・無目的である。ただ内在的にこれを見れば、それは瞬間として世界内に生起する、全ての意志の総計である。あらゆる存在者が自己を実現しようとした結果として全体がある。そこに、そうなるべくしてそうなった全体がある。生起の目的はそれぞれの存在者において異なる。だがそれは互いに組み合わさり、一つの必然的世界を作る。かくして「このように有る世界」と、「このように有るべき世界」とは一致する。

 世界はこのように有るべくして有る。それはそのまま、「現にこのように有る世界は、世界内にある一個物が、正にこのように生じるために有る」ということに等しい。全ての存在、全ての時間が、ただ一つの瞬間の内の、ただ一つの局所、個を目的として存在したのだ、と解釈することが可能である。一つの個物が世界に自己を顕現する時には、そこに現れようとする全ての他者を排除する。またある一部分が生じるには、その生じる場所を他の全ての部分が明け渡さねばならない。一つの場所に、二つのものは存在できないからである。一つの個物は、それ以外の全ての部分との関係性により規定される。一つの個物があるということは、その一個物と全体との関係として可能なことである。そうして諸個物が間隙なく、一つの全体の動きとして、互いを排除し合いながら互いに関係して一つの場所に充満し、それぞれに位置を占める。それは奪い合いであると同時に、譲り合いでもある。そうして実現した知覚と思考の総体が世界である。全ての個物が協働し、戯れ、あるいはその目的たる個物に支配され、あるいはその個物を目的として場所を譲り渡し、一つの目的を実現する。一個物が他の全てを含んで、自己を中心とした世界を作る。それがそのようにあるのなら、世界の全てはそれの為にこそ有った。

 究極的には、世界内のどの部分を取ったとしても、それは世界が存在すること自体の目的たりうる。全てが挙って一個物を成立させる。それを逆から言えば、一つの個物が他の全ての個物を牽引し、支配して、ある全体を形成するということである。ある一つの意志が自己を実現する処に、世界の全てが内包される。個物の目的がこの世界であり、世界の目的がその個物である。その部分、その個物は絶対の主であり、その他の部分は絶対の従として目的を達成する。一つの部分が全体に先行して生じることはあり得ないことではある。ただ関係としての主客・主従は何処にでも見出し得る。全体としての生起には何処にも中心が無い故に、却って何処でも中心となり得る。

 

 私もまた一個物、一つの意志として世界内に有る。自由の概念もまた、意志的に世界内に生じる。自由の概念が不自由の概念を圧倒して現実に立ち現れるときには、現に自由なのだ。そして私の自由を求めるのは、他ならぬ私の意志である。私が意志として、自由なるものを求めてこそ、「私の自由」は実現するのであるから。同時に私の意志は瞬間に生じ瞬間に滅する。また私の意志は世界内の他の個物の意志に内包され得る。従って私の意志は私の意志でありつつ、私の意志ではない。ーーこのことすらもなお意志により否定し得る。あらゆる解釈が可能なのだ。意志の不在を言うのは単に意志の弱さを示すのかもしれない。同時に意志の強さを誇ること自体が、非意志的に生じているのかもしれない。意志の不在を信じる強固な意志が存在することはあり得る。そして意志の存在を信じ込まされるということもある。

 事実が全てに先行する。現に現れたそれが、瞬間における事実である。ある瞬間において肯定された事実は、別の瞬間において否定される。即自的には瞬間に誤りは無い。ただ単にそのように知覚され、そのように思考された現実のみが直接に有る。真理と虚偽との区別は無い。そこで与えられたことが絶対的事実的現実である。有るものが有る。無いものについては、無いとすら言えない。故に無いものも有る。何が有り、何が無いのかという事実の総体がそのまま現実であり、真理である。自由と不自由との対立もまた事実として与えられる。ある主体が自由であるとすれば、それは自由である。不自由であるとすれば、それは不自由である。唯一絶対の瞬間は、その内において自己を否定する。瞬間は自己の内部に、自己の表象を位置付けるからである。自己を相対化し、前後の瞬間を自己の外に置き、根拠と帰結の関係として自己を束縛する。唯一絶対の瞬間を、複数の瞬間の中の一つとする。根拠としての原因・意志・主体を外化し、自らを基礎付け、時間の内に置く。自己の外を自己の内に表象することが瞬間の自縄自縛である。しかし瞬間における世界の在り様は現実的にはそのような成立過程を踏まない。過程そのものが瞬間の内にしかないからである。関係の生起は常に端的である。それは初めから完成されている。故に瞬間の自縄自縛は、そのまま瞬間の現実的様相である。だからこそ、瞬間を位置付ける場所としての時間もまた実在する。

 

 倫理もまたその都度の絶対的事実として実在する。なぜ倫理は存在するのか。それが事実だからである。その都度の事実が、自己の倫理的現実である。外から見れば単なる偶然であるものが、内から見れば必然的意志となる。ある行為が生起する。私はそれをすべきだと思う。何故そうすべきなのか?ーーそうすべきだからである。

 倫理的事実は、全ての事実を包摂している。何が事実であり、何が事実でないかを判断すること自体が倫理的だからである。主観的倫理と、客観的事実とは根柢において区別されない。「そうである」と規定することは、「そうであるべきだ」と命じることである。それは、「そうでない可能性」が常に存在することを踏まえた上で、なお自己においての真理を定立しようとする態度である。この態度において、端的に与えられた絶対的事実は、私自身の意志により表象された相対的事実へと転じる。

 故に世界は私の意志である。私は与えられた事実としての状況において存在する。同時にそれら事実は私が自ら判断した倫理的事実なのである。更に同時に私は私で無く、意志は意志で無い。意志の根拠もまた無である。故に意志には負目がある。負目があるからこそ、意志は意志である。意志は望む通りに自他を規定しようとするが、同時に必ず、世界は全的には望む通りにならない。世界内の全ての部分が意志通りに生起する時、即ち一切の苦痛の無い時、意志と世界は識別されず、却って両者は成立しない。苦痛が存在しないのであれば、何を識別する必要も無く、思考する必要も無いだろう。苦痛があるから、世界があるのだ。存在しているということは、苦しんでいるということである。行為をするのは、それをしないと苦しいからであり、思考を巡らすのもそうしないではいられないからである。どのような有り方においても、有るのである限り、そこには苦痛がある。意志が存在するということは、そこに既に意志通りに行かないことが存在していることを意味する。全ての意志は不本意である。意志は事態を実現しようとする意志であり、現実は意志の否定である。意志は有を全うできない。意志の根柢には無がある。故に意志は有限である。有限ながら、しかし無力では無い、思い通りにならない大部分の中で、辛うじて思い通りになる小部分を支配する、相対的な意志である。

 存在の根底に負目があることもまた自己の意志次第で否定され得る。あらゆる可能性を忘れ、選択の概念を消し去り、唯一の現実に没入する限り、意志も無く倫理も無く、それらを規定する負目もそこに無い。負目なる存在構造があることによってこそ倫理が成り立つ。しかし倫理的事実と非倫理的事実とが区別できないものであるのなら、負目があるという存在構造そのものが一つの倫理的判断なのである。それは意志次第であり、絶対では無い。ただそのように意志できるか否かがまた意志の根柢にある無によって決定されている限り、意志はそれを自由に意志できない。そして意志は非意志に突き当たることによってのみ自己を自覚することができる。思い通りにならないこともあるが、思い通りになることもある。しかし何をどのように思い通りにするかについては、結局思い通りにできない。意志することを更に意志することはできない。意志は意志「してしまう」意志である。望むことが意志の本義であるのに、何を望むかを意志できない。意志は自己矛盾する。故に意志がある限り意志は自由でない。また意志が無いのであれば、やはり自由は無い。よって自由は何処までも無である。そして自己が自由であることを自覚する時には、既に不自由の可能性が開いている。同時に不自由を自覚する時には、自由の可能性が開いている。両者は相即している。

 

 自由と関連する倫理的概念として負目がある。最善を為すべきであったのに、そうすることができなかったということにおいて、負目は成立する。それは丁度自由と不自由、有力と無力の間に存する。完全な存在は常に迷いなく、如何なる意味であれ善を実現できるだろう。完全に無力な存在は何をも為すことができないだろう。無の入り混じった有なる存在者においてこそ倫理は成り立つ。

 関心は常に、より良いものへの関心である。関心を持つということは、現にある自分を超え出ることである。関心は他へ向かう。それは現にある自が空疎であることを意味する。それは現存在の決定性からの離脱の動きでもある。しかし離脱した先がまた無からの決定である。

 異なる現実の可能性が認識されているということが自由の根拠である。可能性は別様にあり得た現実である。別の現実の可能性を認識できてこそ、この現実は外ならぬ「この」現実として認識される。よって可能性は現実がこのように有ることと、別様に無いこと双方の根拠であり、負目、延いては倫理の根拠である。

 有るものも無いものも共に、有ることと無いことのどちらもあり得たものである。有は無との識別によってのみ有であるからだ。そうして、有ることも無いことも実現し得るものとしてのその主体は、有ることと無いこととを超えている。それが有ると言われる時、それは有る。それが無いと言われる時も、実のところ、それは有る。有るものが有る。無いものは無い。無いものを認識することは不可能である。「無いもの」とは「無いとされるもの」であって、真に無いものでは無い。有るから認識され得るのである。そして認識されるから、それは有るのである。認識されねば、存在の根拠も無い。よって可能性の存在の根拠が問われる時、その問われることにおいて、可能性は既に実在を認められているのである。可能性の認識と、可能性の存在とは根柢において区別できない。

 それぞれの可能的存在及び可能的世界は、現実において自己を実現しようとする一個物として、意志の断片である。可能的存在もまた一つの現実的個物として、現実の内に存在する。可能性はそれ自身がその都度、有ることも可能であり無いことも可能である。よって事態は、多様な可能性の中の一つであることも可能であり、唯一絶対の必然であることもまた可能である。そして有であることまたは無であることは端的であり、根拠は不要なのだ。有はただ単に有として、無はただ単に無として、相互に関知せず、自己を主張するのみである。「有と無とが識別されることによってのみ両者が成り立つ」という原理自体が、有無双方の端的な成立に遅れてくる。端的に成立しているからこそ、識別を媒介とした成立根拠の説明もまた可能となるのである。よって必然も端的であり、可能(偶然)もまた端的である。両者は無において根底的に通じている。

 全ては有る時には有り、無い時には無い。有ることも無いことも可能であるから、有るものは常に「無いのでは無い」という無を、また無は、「有るのでは無い」という無を含む。また有るものは「有るので有る」という有を、無いものは「無いので有る」という有を、肯定面として表現している。そして現実性としても可能性としても現れない全ての知られざるものたちが、「有るのでも無いのでも無い」否定として、また何時でも可能となり現実となり得るものとしての「有るのでも無いのでも有る」肯定として、世界の限界として存在する。これら世界の限界としての諸個物は、世界生起以前にそれ自体として存在するのではないし、それ自体として何らかの性質を持ち、意志を発揮するものでもない。瞬間の外には何も無い。全ては生起と共に与えられる。性質は現実的な関係性において初めて成り立つ。

 

 世界内に現れる存在者は、知覚としてであれ思考としてであれ、その個物として識別されて現れる限りそれぞれに別個である。同時にそれら個物は固有の位置を占めつつ同時に生起し、互いに関係し合うことによってこそ自己の存在と志向を主張できる。自己規定はそのまま自己存在である。存在者はそれ自体としては無である。何とも関係しない孤立した存在は、何処を志向することもできず、何等の機能も持たない。それぞれの個物は、お互いに相手とは異なる、相手と同一性を持たないことによって自身である。個物は互いに否定し合っている。互いに自己に閉じることにおいては、個物は自由であり、何を対象として志向することもできる。それが世界の可能性である。世界は存在するものの関係の総体だが、その様相は如何様でもあり得る。

 存在者たちはこの現実、この瞬間と関わりのない何処かに潜んでいるのではない。全ては此処にある。此処は、全ての存在者の総計から一部分を切り取って来ただけの相対的場所、ないし世界構成ではない。世界は構成されない。世界は完成した世界としてこれ限りである。世界の一部が主観に映じるのではない。主観なるものもまた一個物に過ぎない。全ての個物が一堂に会する場所が、主観であり客観でもある、この実在世界である。主観性と客観性とは切り離せない。有るものの一部を認識するのではなく、認識されたものだけが有るのでも無い。存在者は有無を超えて存在する。実在は瞬間に実在する。だが瞬間は持続しない。持続しない実在は実在では無い。だから実在は実在であって、実在で無い。現れる諸個物、及び現存在はそれ自身であって、それ自身で無い。無いものは現れないだろうし、有るものは永続するだろう。だから存在者は有るのでも無いのでも無い。存在者は何処から来ることも無いし、何処へ行くということも無い。存在者は生起の外に、常に同じように有り、かつ無い。存在者は生起の内に、時として有り、時として無い。ただ生起したものだけがある。生起しないものは可能性としての無限である。意志と偶然によってのみ、現実の具体相が有る。

 全ては時の中に有り、時として生起する。時は断絶の連続である。もし完全に断絶していたら、そこに断絶があることを認識できない。断絶は二つの断片の間にのみ成り立つのに、完全な断絶の概念は一方を捨て去るからである。断絶を言えるのは、過去が既に現在の内に有るからである。そこに連続がある。だが現在する過去は過去では無い。真なる過去は失われ、最早無い。現在する過去は、現在しない過去との同一性を、現在において主張しているだけなのだ。だが真なる過去は失われている以上、現在する過去とは同一であるとも別異であるとも言えない。同も異も、現に有るものについてのみ言えることであり、無いものは何とも同一では無いし、別異でも無い。故に連続もそこには無い。故に全てが、断絶するのでも無く、連続するのでも無い。時という根本が、時として断絶を主張し、連続を主張するのみである。

 ある部分は他の全ての部分と関係し合うことで自己の実質を得る。全体の内にある個物の中のどれと関係しどれと関係しないか、どのように関係するかということが、個物の実質である。世界は常に全体として生じ滅する。世界の一部が変化することは、その一部を包含する全体が変化することである。故にその一部分と関係している、全ての他の部分が変化することでもある。部分的な変化はあり得ないのだ。事物が持続するためには、全体が一切変化せず連続する他ない。完全な連続は即ち静止である。ところが静止は無に等しい。動かない世界においては「動いていない」ということ自体が認識され得ないからである。「動いていない」ということが気付かれる時には、既に世界は動いている。変化なき瞬間が連続するとしたら、それらの瞬間は一つの瞬間としてしか感じられないだろう。「動いていない」ということは捉えられない。よって静止した世界はあり得ず、静止した事物・実体もあり得ない。孤立し静止した事物そのものは何処までも空疎である。だから事物は常に、動きの中で、変化する関係と共にしか存在しない。世界は総体として動いている故に、有るものは必ず無くなり得る。現前するものは常に他のものと共に、他のものに干渉されつつ、そのつど異なった相貌を持ち、異なる強度において現前する。全ては揺らいでいるのだ。

 永続するものが有るとしたら、それは既に体験されていなければならないだろう。しかしそういうものは現に無い。また仮に、いつまでも現前し続ける何かが生起したとしても、飽くまでその現前は、今この瞬間でのことでしかないのだ。永遠の時を現実に体験し終えることはできない。だがそのことの必然性、「常に」ということが、また常ならぬことでもある。如何なる真理も法則もその根柢は動であり、無である。だからこそ却って静止的実体は実在し得る。それは瞬間において実在する。瞬間において永遠が実在する。同一性を瞬間が保証する。事物の同一性は端的に感じ取られる。全ては断絶しつつ、再会の可能性を持ち続ける。

 自己に実質を与えるのは他者である。個物は自己の本質を他者に依存している。自己の存在そのものと、「自己」なる概念や「自己の意志」なる概念とは異なる。概念もまた自己を埋め、自己が志向する対象に過ぎない。自己の存在そのものは何処までも空疎である。中身が無いのだ。自己は自己の素性を他者に負うている。個の負目は、他者に対する負目である。他者が自己を満たす。他者が無ければ自己は何ものでも無く、自己ですら無い。同時に自己は他者を含む。他者は常に、自己の存在において与えられた他者であるからだ。互いが互いを必要とし、互いに依存する故に、両者共に元来無である。自己とは、その存在の内で全ての他者が作用し合う、知覚と思考の場である。場を場として単独で取り出すためには、場そのものとその場を満たしてるものとの識別が必要となるのであるから、自他は同時である。そうして、場としての自己を満たすその他者の内に、他者と共にある個体化された自己がいる。自己の意志が主となって他者の意志を従えることもあれば、その逆もあり得る。自他共に完全な存在ではない故に、此様であることもでき、別様であることもできる。無であることが此様と別様双方の存在根拠である。そこに個の自由がある。またこの自由も他者に縁る自由である。自他の全体は生起そのものの非主体性たる無に縁っている。即ち全体の在り方は偶然による。

 

 全ては無から生じ無に帰る。無論、無なる領域が有るのではない。有と有の間には何も無い。また有が別の有に成ることは無い。瞬間の有は絶対である。有の内部に関係はあっても、有と有の間に関係は無い。だが唯一絶対の瞬間は無い。だから、有は即座に無である。それが有るということは、それが無いということである。有は持続しない。無になり得ない有は無く、完全な有は無い。故に完全な安定、完全な原因から生じる完全な結果、完全な善は無い。

 それが負目であり、無力である。だが実在は無力な刹那にしか無い。刹那の実在する意義を信じることである。このようであるならば、このようであるべきだったのだ。世界の全ての意義が此処にあると信じるのなら、負目は無い。この信仰もまた完全には遂行できない。その不完全性がまた一つの全世界的意義であると、更に意志し直すことである。結局のところ、それが世界の意義であるなら、私は常に最善を尽くしている。

 全てが根源的に動であるからこそ、完全な安心はあり得ない。その半面、取り返しのつかない倫理的過失もまた存在しない。無であることにおいて根底的に負目があるが、しかし負目もまた根底的に無である。現在の決定は未来の不定である。只管な事実の連続に過ぎない現在において、事実として後悔し、傷付き、不安を感じる。現実は常に最善であり、かつ最悪である。現実は一つしかないからである。しかし善と悪は推移する。現実は無であるからである。無であることにおける限界として苦痛が存在する。同じ限界において苦痛は解消される。そうして時に強く時に弱く、時に意志し時に流れに任せる、それが無として有るものの必然である。何となることも可能であることの必然である。

 私の意志があり、世界の意志がある。両者は対立し、一方が押せば、もう一方は退く。そして互いに互いで無いということ、両者が二つになるところに有限が有り、負目がある。苦痛はそこに生じる。苦痛だけが常に問題となる。そして苦痛は常に倫理的苦痛である。どのような苦痛であれ、要はその事態や感覚がそこに存在することが、意志に反するから苦痛なのである。意志は世界を支配できない。意志が無であることを苦痛が示す。同時に苦痛が意志の存在を示す。苦痛に対処するところにしか意志は無い。よって意志の存在は苦痛からの救済に向かう希望となる。意志を避けては通れない。意志による苦痛の克服は、苦痛を解消するための現実的行動によることもあれば、意志自身の転換によることもあるだろう。状況を変えることもできるし、状況に従うこともできるだろう。力の湧くのを待つことである。湧いたのなら、その時を逃さず動くことである。動けないのなら、動かないことである。それが私の意志であり、世界の意志でもある。