憂覚書

断章取義

樫山欽四郎『哲学概説』3

樫山欽四郎『哲学概説』(創文社、1964年)

 「人間は死すべきものである」という言葉がある。これはずっと昔から言われてきたことである。これは、しかし、放っておいてもそのうちに死ぬ、という意味であろうか。それだけのことなら、特にいう必要はない。ことさら、そういうことを言うのは、何故だろうか。それは、死ぬことを知っていると、自分で自分に言い聞かせているのである。だから、そう言うとき、死に対処せよと言っているのである。それは、ただ、自然的事実を客観的に、言っているだけのことではない。自然的事実を言っていないわけではないけれども、ただそれだけのことではない。

 むしろそれは、呼びかけ、語りかけているのである。「汝等心せよ」と語りかけているのである。そういう形で、対処することを、心がまえをすることを、呼びかけているのである。そうでなければ、当り前のことを、ことさら、言う必要はない。昔からの言葉として、大事にうけつがれてきたのはそのためである。滅多に死なれないぞ、と呼びかけているのである。追い越せないものであることを、知らせているだけでなく、追い越さねばいけないことを、呼びかけているのである。その言葉は、それまでに何とかしなければいけない、という形で、それに対処することを求めている。

 だから、「人間は死すべきものである」というのは、人間は死ぬことができる、という意味になる。ということは、死を選ぶことができるという意味である。ということは、いつでも、好きなときに、思ったように死ぬことができる、という意味ではない。ピストルで死のうと、薬で死のうと勝手だ、などといっているのではない。それとは全く逆のことを意味している。つまり、お前の人生を選ぶことができる、という意味である。死に対処して、それにふさわしく、お前の人生を選ぶことができる、という意味である。そういう形で、人生を選ぶことができるという意味で、死を選ぶことができる、と言っているのである。先取りして人生を選ぶのは、先取りして死を選ぶのである。めったに死ねない、という形で、人生に対処し、人生を選び、人生を可能性として受けとる。そういう形で、自然死をではなく、死を選び、死を可能性として受けとり、自らその主体であろうとすることを呼びかけている。よき人生を生きようというのは、よき死を死のうということである。良きまたは悪しき人生を選ぶことができるのだから、良きまたは悪しき死を選ぶことができる。

(6-7頁、「客観的に」に傍点)

 

 私は死ぬ。これは大変なことだ。どう大変なのか? それは分からないが、とにかく大変なことだ。むしろ「死が分からない」ということが、大変なことなのだ。死とは何か、死んでどうなるかが全く分からない。全く分からないところに、いつか放り出されることになる。それが恐ろしい。――巷では、死後全くの「無」になってしまうことを恐れたり、どこかに生まれ変わって苦痛を受けることを恐れたり、地獄に落ちることを恐れたり、死によって何かを「失う」ことを恐れたり、或いは死ぬまでの過程で生じる苦痛を恐れたり、死後に、死んだ自分が受ける評価を恐れたりしている。これらの恐れは所詮、派生に過ぎない。根底的には、不可知であるから死は恐ろしい。いつ、どう死ぬのかも分からないし、死んで後どうなるのかも分からない。

 ――自分の死に方の見当がつかないのは、現状(2023年12月時点)私が健康体で、若く、差し迫った危険も無く、死が現実味を帯びていないからではある。間違いなく死ぬ病気に罹って余命が宣告されれば、経過は大体予測できるし、その通りになるのだろう。それでも、やはり死んだ後のことは依然分からないし、またその死がどのような意味を持つのか、持つべきであるのか、も分からない。後者については自分で決めなければならない、という話だ。――或いは他人が決めてくれることもあるかもしれない。だがそれは、その他人を信じると私が決めることだ。私はいつでも、その信仰を捨てられる。帰依することもまた主体的なのだ。

 ――分からないことは何故恐ろしいか。――分かっていれば対処できる。分かっていないと対処できない。――対処できないと何故恐ろしいか。――酷い目に遭って、為す術がないかもしれない。結局、問題になっているのは苦痛なのだ。どのような苦痛があるか分からないのが恐ろしい。案外死んでみれば、そこには苦痛ではなく快楽や幸福があるかもしれない。かもしれないが、やはり、分からない。

 分からないので、分かるようにしようとする。その結果様々な態度が生じる。これが、死に対処するということである。つまり対処できないということ自体に対して、対処をしなければならない。これが、追い越しようのないものを追い越すということだ。差し当たって死が何であるかは、仮定するしかない。では「死後にあるのは間違いなく快楽であり、幸福である」とでも仮定してみるか。――そう考えるなら何故今すぐ死なないのか?――「楽しみは後に取っておく主義だから」。――一応これでも、無理は無いようである。ひとまずこう考えておけば死は怖くないし、この世で多大な苦痛を被ったときには即座に自殺できる心構えが得られる。が、しかし――流石に話がうま過ぎるのではないか? この世の苦痛に耐えかねて自殺したら、自殺した先がさらに苦痛に満ちていた、ということはあり得ないのだろうか。あり得ないのだと、とにかく仮定を続けることができればよい。できないから困っている。この「できない」は何か理屈があってできないというのではなく、単に話が怪し過ぎてできないということに尽きる。それを言うなら死に関する話は全て怪しいのだ。話が信頼できるか、できないか、ということを判定するには、理論が要る。死を語れる理論は無い。何しろ理論の構築も理解も応用も、全て生きている間の出来事であって、生きている間に死を如何に分析し理解することができたとしても、実際に死んだ瞬間にそれらが全て誤謬であったことが明らかになるとしてもおかしくはないからだ。そういう訳で――ではそういう分かりようがないものを考えること自体が無駄ではないか?――無駄であるかどうかすらも分からない、というのがここでの趣旨なのだ。だから無駄であるとも言えない。死が分かるものであるのか、分からないものであるのかということ自体が、分からない。

 「無記」や「判断中止」という態度は、死は分からないものだということが分かってしまっている者の態度である。それも可能性の一つではある。分からない分からないと言い続けるよりは良いかもしれない。――実際普段生きていて、一々死を気にしてはいない。判断中止は実際に起きる。が、この中止は飽くまで中断であって、再開する可能性と共にある。しばしば死を忘れるが、しばしば死について考える。考える度に分からないので、また中止する。そういうものだ。中止しようと決めて一生涯死については考えない、という強固な態度は採用できない。死というのは、考えねばならないことではないかもしれないが、考えたくなってしまうものなのだ。何故考えたくなるのか?――それが最も大きく、しかも現実に起きる可能性が最も高い非日常だからである。間違いなく死は冒険なのだ。真に何が起こるか分からない冒険である。そういう訳で――自分の死について考える気持ちはいつも浮ついている。――先祖は全員死ぬことに成功したのだ。先祖にできて私にできないことがあろうか。と偶に考える。――しかし実際、死にかけてみれば碌なものではあるまいとも思っている。現に私は今すぐに死にたいとは思っていない。

 ――考えられた死はいつも軽薄である。死は体感され、体得され、現実に対処されねばならない。死とは何かということの真理にはそうすることでしか接近できない。――結局のところ、死が分かるの分からないの、死んでどうこうなるのという話は、死んだ後のことについての話であって、死ぬ前の、「どう死ぬか」「どう死ぬべきか」についての話ではない。真に探求されるべきなのはこちらである。もっとも死後が分からなければ、どう死ぬべきかも分かりようが無いのではあるが。――重要なのは死とは何かを確定させることではなく、「死ぬ」という事実そのものに対処することである。その都度判断を中止したり、しなかったりしながら死に対している。それは、死を考えるということであって、実践することではない。思考は中断する。だが実践は常に行われている。死に対する思考は、死の実践に遅れてくる。つまり、訳の分からない死というもの(?)がとにかくこの世に存在する(?)ことに「ついて」ではなく「おいて」、何を現にしているのか、ということである。

 当座、生きていて、次に何をすべきなのかは大抵分かっている。やると快楽が得られることか、やらないと苦痛が発生することだ。この二つしかない。つまり感覚的で、仮言的、条件的だ。死もまたこのように、日常の中で扱われる。もう少し我慢すれば得られる快楽のために、今死ぬわけにはいかないのであるし、今発生している多大な苦痛のために、もう死んでしまおうかと考える。この時死は自ずと規定され、理解されている。快楽を阻む無として、或いは苦痛から救う無として、そのつど規定されている。極楽に行くため、地獄に落ちないために善行を積むのもまた同じことである。死もまた条件付けられている。それは間違いないことだ。死もまた「次にどうするか」に巻き込まれている。が、本来の死(不可知の死)は「次にどうするか」の問題ではない。どうすることもできないのが死である。死は終わりである。その先が何であれ、終わりである。定義上。恐らく。死んでなおこの世に留まることもあり得ることは幽霊の概念が証明しているけれども、とにかく。――分からないのだ。死の先は無限の可能性である。可能性が無限だということは、つまり、「無」ということである。あまりにも雑多な色が混じり合って一色になってしまうように、その意味で、死後は無なのだ。それは如何なる規定もされ得ない故に無である。見通せぬ故に終わりである。――

 という訳で、人生は「次にどうするか」で動いているのに、死にはそれがない。だからどうすればいいか分からない。分からないから無視する。無視しても結局死は現実に訪れる。無視することで死を追い越しても、最後には死に追いつかれる。これはいつかの話である。いつかの話だが、今の話でもある。追いつかれるのは確実だからだ。確実だが、しかしいつ来るかは分からないので、来てから考えればよい。――それでは遅いかもしれないのだ。何しろ死は分からないから。だから備えておく必要があるのだ。どう備えるのか?――3日後に確実に死ぬことが分かっていたら、何をするか。何もしないかもしれない。それも分からない。というより、3日後に死ぬことが分かった時から、現実にしていることが、そのままその人の死への態度なのだと言える。3日に限る必要はない。1年後でも100年後でもいい。100年先なら、呑気に構えていてもいいだろう。が、実際は明日かもしれない。それも分からない。なので、今は呑気に過していてもいいし、明日死ぬかのように過してもいいのだ。これが結局、死の可能性を現実の、生の可能性に落とし込むということである、はずだ。――明日死ぬかもしれないから、今日したいことを、或いはすべきことを、することができる。死後が実体として無であるのだとしたら、すべては無駄となるだろう。だが死は可能性としての無であり、終わりなのだ。――明日死ぬとしても、私はこれを書くだろう。このことを以て、これが私の死への態度だということになる。明日死ぬ、1時間後に死ぬ、1分後に死ぬ、今ここで死ぬ、としても、なおこれをやるのか否か?という問いが、常に死から発せられていると言ってよい。これに肯定で応じようとすることが、人生を真剣に生きるということなのだろう。――死んでどうなるかは分からないから、「明日死ぬとしてもこれを私はやるのだ!」と考えてやったことについて、死んだ後に酷く後悔する、ということもあるかもしれない。それすらも含んだ上で、なおもこれをやる!と言えるか否か、ということなのだ。それはつまり瞬間を生きることである。死は未来の出来事であり、死を見越すことは恰も未来を見越すことであるかのように思える。が、そうではない。死において重要になるのは今なのだ。「すべきことはした」と言って死ねるかどうかだ。死が定義上終わりであること、実際上終わりであるかどうか分からないこと、終わりであるとしても終わりでないとしても、その先がどうなっているかは分からないこと、これら全てを了解した上で、死を勝手に規定することなく、判断中止に留まることすらせず、有限性を認め、真剣に死を受け入れることで、瞬間を選ぶことができる。

 

 ――「これをやるのだ!」という「これ」が見つからない場合は?――見つかるのを待つ。――しかし、特殊な行為でなくても、日常茶飯のことであっても、また苦痛な行為であっても、とにかくこの瞬間これをすることが正しい!と感じることは可能であるはずだ。そのような意志を持つことができれば、だが。それは最早自力でどうにかできることではない。死んでどうなるものか自分の意志で選べる訳ではないのと同様、今この瞬間にどう考えどう感じどう生きるかということも、所詮自力でどうにかなることではない。これもまた事実だ。――そもそも、死を持ち出すまでもないのだ。「明日死ぬとしても」と仮定する必要は無い。「明日何が起きようと」という仮定で十分なはずだ。なのに殊更死を持ち出しているのは、「明日何が起きようと」が、厳密には「明日とは死である」ということを前提しているからだ。未来とは死なのだ。何故なら、世界のすべては結局この瞬間に全体として生じ全体として滅するからだ。瞬間は、瞬間ごとに死ぬのだ。因果関係の全体もまたこの瞬間にある。だからこの瞬間を外から縛る因果は無い。故に生起は全て偶然である。未来は偶然なのだ。だから、「何が起きるか分からない」というのは、死においてのことではあるが、それは今この瞬間においても同じことなのである。

 

 ――「死ぬとこうなる」ということを決めてかかるのは欺瞞であり、「死んでどうなるかは分からない」ということに立ち止まるのは不徹底でしかない。当座主義は、死が分からない「から」今この通りにあるがままでよい、と考える。そこには、当座の対処、間に合わせでよいという居直りと共に、不安がある。死が分からない「けれどとにかく」私はこうするのだ、と考える時に、不安は無い。――しかし「こうする」のは意志の問題なのか? 意志により選択するまでもなく、「こうするしかない」のが実際のところではなかろうか。「こうするしかない」ことを喜んで迎えられるかどうか決めるのが意志なのだ、と言ってみても、やはりその意志の在り方自体が常に「こうするしかない」ような在り方で生起するのであり、何処までも意志が働く余地は無い。だが意志が実在しないというのでも無い。意志なるものが実在する時には、同じように「こうするしかない」ような仕方で、とにかく端的に、意志は実在する。だから結局、意志は存在する時には存在し、しない時にはしない。意志することと、させられることと、してしまうことは等しい。